千日回峰行
比叡山では今も
その祈りは続いている
それから千二百年余り
遥か昔の平安時代
一人の僧が比叡二百六十余りの神仏に
花を供え祈り捧げた
千日回峰行
千日回峰行とは
平安時代初期(831年)相応和尚(そうおうかしょう)が7年の間、毎日欠かさずに根本中堂に花を供え続けたことが千日回峰行の起源とされます。
回峰行は花を供え祈る事が主ですから草木花が芽吹く3月から7月にかけて行われます。
深夜1時、白い浄衣に身を包んだ行者が出峰します。手には金剛杖、頭には蓮華笠を頂き回峰行を遂行出来ない時は自決すると言う教えから懐には死出紐、短刀、顔に被せる白い布と三途の川の渡し賃である六文銭をを携え行に挑みます。それだけの覚悟を持って修行し、行の意味を訊ねるのです。
不動明王が居られる無動寺谷から出峰し比叡山中の260余りの箇所を巡礼、1日の距離にして七里半(およそ30km)の距離を歩きます。大乗仏教の教えでは悟りの境地、阿頼耶識(あらやしき)をあらわす数「八」の一歩手前の距離を歩くという意味で、七里半歩きます。完全を求めず常に自分自身を高める為に七里半なのです。千日回峰行を満行された大阿闍梨は歩いた総距離にして地球一周分4万キロにも及びます。
©️2023 Koji Uchida/A.I.Univesre.LLC
自利行 じりぎょう
100日から400日の行は自利行、自分自身の修行です。そのうち300日の行までは蓮華草鞋という、行者用の草鞋を素足で履き蓮華笠は頭に戴かず自身の仏さまとして手に持ち歩きます。
400日の行から足袋を履く事が許され、蓮華笠も頭に戴く事が出来るようなります。
500日を終えると白帯行者(びゃくたいぎょうじゃ)となり、下根満(げこんまん)の行者となります。これは化他行の入り口に入ったという意味で杖を突けるのもこれ以降からになります。そして、600日、700日の行を一年で行い、回峰行最大の修行「堂入り」となります。
堂入り
阿闍梨として生まれ変わる行
「堂入り」とは、文字通りお堂に籠り修行する行になります。釈迦が菩提樹の下で一週間瞑想し覚りを開かれたことを追体験する行で行者は一度亡なり、阿闍梨として生れ変わる行でもあります。堂入りの前には生葬式を行い縁のある僧侶と食事を取り今生の別れを覚悟するのです。実際は一口だけ口をつけ、あとは食べないのが習わしです。
そして多くの信者に見守られ不動明王の居られる明王堂に入ってからは「断食」、「断水」、「不眠」、「不臥」を九日間続け、一日に三座あるお勤めと、一日一度お不動さまへお供えする閼伽水を汲みに堂外へ出る以外は不動明王のご真言を十万遍 唱え続けます。
©️2023 Koji Uchida/A.I.Univesre.LLC
化他行 けたぎょう
800日の行からは化他行に入ります。文字通り他の為の修行になります。
比叡山内の回峰行に加えて、京都市内の赤山禅院までの距離十五里(およそ60km)歩きます。最初の七里半は自利行で比叡山山中を、後半は化他行で赤山禅院まで歩きます。到着は深夜3時や4時くらいになりますが、多くの信徒が阿闍梨を待ち迎えお加持(1)を授かります。そして御山(2)に戻る行を百日間つづけます。
900日の行からは京都大廻りという京都市内にある天台宗ゆかりの寺院を参拝し歩く行がはじまり、これも百日間つづきます。歩く距離は七の三倍で二十一里(およそ84km)を歩き救いの心をもって礼拝し歩行禅を修します。その基本は身口意の三業となります。
身…ひたすらに歩く前提として、身だしなみを調えて歩く。
口…雑念を払うためにお不動さまのご真言を唱え歩き。参拝する場所
でお経、真言を唱える。
意…仏さまのお力を戴き、物事が成就するように心に仏を念じる。
そして975日をもって千日回峰行は満行となります。なぜ25日余るかと言うと千日歩き切るのではなく残りは一生かけて修行をするという意味なのです。
京都市内にて
杖の音が街に響くと足を急がせ大阿闍梨の加持を待つ。愛称を込め「あじゃりさん」きはったでと
町内が賑わうのも京の風物詩。
(1)お加持とは不動明王の化身の阿闍梨より数珠で頭を撫でられ除災招福を授かる所作
(2)御山(おやま)京都・滋賀では御山と言うと比叡山の事を指し、広辞苑にも掲載されている。
京都御所 土足参内
平安時代初期858年 回峰行の始祖・相応和尚(そうおうかしょう)は 清和天皇、宇多天皇、醍醐天皇などの勅命により宮中内裏に参入し天皇の病気や諸願成就を祈り玉体加持を修されました。
女御が病に付した際には加持祈祷に召し出され見事な霊験を修められたと伝わり、それ以降 土足参内は故事に習い千日回峰行を満行した比叡山の大阿闍梨だけに許される特別な儀式となっています。
現在では京都御所 小御所にて国家安寧などを祈ります。
平成9年10月12日